大多数の伝統音楽が [伝統・音楽・幕末]
幕末から明治にかけて完成をみたのに対し、箏の演奏技法の開拓と様式の展開は明治以後も継続され、幕末以来の新しい試みや西洋音楽からの影響のもとに、大阪を中心とする明治新曲が出現した。
菊高検校、菊塚検校、楯山登らの活躍によるものである。その一方では、20世紀初頭、京都で鈴木鼓村が京極流を樹立している。
さらに宮城道雄らの新日本音楽に至って、西洋音楽からの影響はいっそう強くなり、演奏の場を家庭内や座敷からホールなど大会場へと進出させたが、同時に日本的感性の豊かさを維持した。
そして新邦楽から第二次世界大戦後の現代邦楽へとつながってゆき、新しい時代と音楽の流れに適応する動きをみせている。
なお、明治以後は、従来の十三絃箏以外に低音域の充実を図って、宮城道雄が十七絃や八十絃、宮下秀洌が三十絃、野坂恵子が二十絃の箏を開発、使われなくなった八十絃を除いて、それぞれが独自の世界をつくりだしている。
また近代的な演奏を目ざして、反響板を取り付けた箏響台の上に箏をのせ、腰掛け奏をするようにもなった。
大別すると生田流、山田流の二大系統になる。
生田流の系統は大阪、京都を中心に、中国、九州、名古屋などに根を下し、さらに大阪や九州から東京へも進出している。
角爪を使用し、地歌種の箏曲においては三絃を主とし箏を従として合奏を行うのがこの系統の特色となっている。
もっとも、一口に生田流といっても、狭義の生田流のほか、新生田流、継山流、新八橋流などがあるし、さらにそこから派生した宮城会、正派、京極流もある。
また現在は廃絶したが、隅山流、藤池流、安村流などが過去に存在したようである。
これとは別に、大阪では菊筋、富筋、中筋、楯筋、玉筋などの、京都では上派、下派、伏見派などの区別があった。
菊高検校、菊塚検校、楯山登らの活躍によるものである。その一方では、20世紀初頭、京都で鈴木鼓村が京極流を樹立している。
さらに宮城道雄らの新日本音楽に至って、西洋音楽からの影響はいっそう強くなり、演奏の場を家庭内や座敷からホールなど大会場へと進出させたが、同時に日本的感性の豊かさを維持した。
そして新邦楽から第二次世界大戦後の現代邦楽へとつながってゆき、新しい時代と音楽の流れに適応する動きをみせている。
なお、明治以後は、従来の十三絃箏以外に低音域の充実を図って、宮城道雄が十七絃や八十絃、宮下秀洌が三十絃、野坂恵子が二十絃の箏を開発、使われなくなった八十絃を除いて、それぞれが独自の世界をつくりだしている。
また近代的な演奏を目ざして、反響板を取り付けた箏響台の上に箏をのせ、腰掛け奏をするようにもなった。
大別すると生田流、山田流の二大系統になる。
生田流の系統は大阪、京都を中心に、中国、九州、名古屋などに根を下し、さらに大阪や九州から東京へも進出している。
角爪を使用し、地歌種の箏曲においては三絃を主とし箏を従として合奏を行うのがこの系統の特色となっている。
もっとも、一口に生田流といっても、狭義の生田流のほか、新生田流、継山流、新八橋流などがあるし、さらにそこから派生した宮城会、正派、京極流もある。
また現在は廃絶したが、隅山流、藤池流、安村流などが過去に存在したようである。
これとは別に、大阪では菊筋、富筋、中筋、楯筋、玉筋などの、京都では上派、下派、伏見派などの区別があった。
update:2010年03月17日
